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バッヂテスト物語(番外編)

 (バッヂテストの功罪)
 いったん合格してしまうと、とてもさめた目で見れるものだ。
 カナダのウィスラーに行った時のことだ。同じスキーというスポーツであっても、日本とカナダでは、いくらか文化が異なるようだ。カナダのスキーヤーたちはみな、楽しむことを優先して滑る。下手でも、ガニマタになっても、とにかく転ばないという「強さ」があった。転んでも楽しそうに見える。ウェアも登山服をベースにして、色は地味だが、他人の格好は気にしないようで、流行に左右されないようだ。
 日本人はその年に流行の、派手なウェアが多く、足をそろえて滑るのを上手かヘタかの基準とするきらいがある。特に、ウェーデルンで滑るのは、日本人以外に見たことが無い。これを見ていると、日本人は形にとらわれて、楽しむことを忘れているのではないかと思うようにもなった。
  だが、その考えもまた日本に戻って変わることがあった。もともと、北米には森林限界を超えたスキー場が多く、とにかく広くてすいている。それに対して、日本はスキー場そのものが狭いうえ、北米と異なり、コース以外は滑走禁止で、必然的に狭いコースを滑ることになる。この混雑しやすいゲレンデを安全に滑るには、コースを横切るように滑るよりも、ウェーデルンのように、幅を取らずに滑る技術が必要になるのだ。つまり、日本でスキーを楽しむためには、ある程度の技術はあった方がいいことになる。ウェーデルンを覚えたりすることは、決して無駄なことではない。
 では、うまくなるのにバッヂテストは必要なのだろうか。
 日本人は資格が好きな国民だという。スキーの世界でも、バッヂテストという検定試験が盛んだ。大勢のスキーヤーがテストのために、スキー場に集まるのは日本くらいだろう。そして、これを揶揄する向きもあろう。バッヂを持っていなくても、滑っていいのだから。しかし、この国民性を逆に利用し、バッヂテストなどを励みとして練習すれば、技術の習得も早まるだろう。私も、もしバッヂテストが無かったら、ウェーデルンをできるようにはならなかっただろう。
 バッヂテストは、手段であって、目的であるべきではない。最終的には楽しむための技術が身につけばそれでいいので、それを促進するためのツールだと割り切った方がいい。いろいろ考えてみたが、バッヂテストそのものは意味があるものであり、その功罪は、解釈する人に委ねられることになるのだと思っている。


(私のその後)
 なお、合格後の私だが、1級合格に夢中のあまり、幅の広さが足りないという気がしている。たとえば、コブ斜面などはほとんど入らなかったので(板も固いことだし)、コブも1級に恥じないように練習中である。
 また、マテリアルについても勉強しなおしだ。アメリカに行った時、SAJの常務理事でインターアルペンの代表、村里敏彰大先生と同室になったが、私のスキー板(1級に合格したRXD)のエッヂに触って、「こりゃあダメだ」と言われた。エッヂを磨く大切さを知らなかったのだ。確かに、先生のエッヂと比較するとキレが無い。
 また、ニュージーランドに行った時、私のバインディングの開放値が3だと知って、伊東秀人デモがびっくりしてのけぞった。私は初心者の時の開放値をそのまま使用していたのだ。どうりでコブに入るとよく外れるなと思ったものだ。ジャンプして硬い雪面に着地しようものなら、ほぼ100%の確率で外れてしまう。私の体重なら、最低でも5だという。
 とにかく、社会人になってからスキーを始め、周囲に相談する人もいなかったので、色々と余計な苦労もしたが、もう検定のためのスキーはやめにした。早めに切り上げて観光したり、温泉につかったり、国内の回数を減らして海外に行くようにしている今日このごろである。

 

 
(第5話:飛翔編)
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