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魔の山:マッターホルン物語

※太枠の写真は、クリックすると拡大ページを表示します
マッターホルン
ツェルマットの村から見た夏のマッターホルン。
左斜面が東壁、右斜面が北壁。夏でも雪が残る
マッターホルン  
 雪がびっしり付いた冬のマッターホルン。北壁は斜度が強すぎで
雪が少ない。山頂部分には強い風が吹いている
 

 【マッターホルンの概要】 
 マッターホルン(Matterhorn)はスイスとイタリアの国境、ヴァリスアルプスにある、標高4478m
(*1)の山で、イタリア語ではモンテ・チェルビーノ、フランス語ではモン・セルバンという。スイス側の登山基地となるツェルマットから南西10キロに位置している。
 もともとこの絶壁はアルプス造山活動による隆起と、マッターホルンよりもはるかに高い厚さでアルプス全体を覆った氷河による侵食作用によってできたものだった。民間伝承によれば、最初は草原にあった一つの岩が次第に隆起してできたものと伝えられている。言い遅れたが、マッターホルンとは「(高地の)牧草地の角(ツノ)」が直訳となる。
 マッターホルンは視覚的にも面白い山と言える。実をいうとゴルナグラート展望台から見て、視線を後ろに移した所に間近に見えるモンテローザ(Monte Roese:4634m)の方が156メートルほど高いのだ。しかし、モンテローザは丸みがあるうえ高峰の連なる山塊にあるのに対して、マッターホルンは急峻で単独の高峰であるがために、こちらの方が高く見えてしまうから不思議だ。事実、地元ツェルマットの人々は昔から、マッターホルンこそ世界で最も高い山だと信じて疑っていなかったらしい。

マッターホルン スイス ヴァリス州
 スイス全図。チューリヒよりもジュネーブの方が近いが、
日本からは飛行機の便の関係でチューリヒもよく使われる
 ツェルマットとマッターホルンのおおよその位置関係
マッターホルン
クラインマッターホルンから見たマッターホルン。
南壁を正面に、夏でも雪が残る東壁が
右側に位置する。角度が異なるとゴツゴツした山に見える
 【マッターホルンの構造】
 マッターホルン全体の構造は基本的にはピラミッド型となっており、ざっくり言えば4つの面(東壁、南壁、西壁、北壁)と4つの尾根(ヘルンリ尾根、ツムット尾根、リオン尾根、フルッケン尾根)がある。東壁と北壁の境であるヘルンリ尾根はツェルマットに向かって真っすぐ伸びており、観光客が目にするのはこの角度に近い。このヘルンリ尾根の延長から見るマッターホルンが山裾が最もせばまって見え、最も美しいと言われており、ガイドブックやカレンダーなどの写真、あるいは商品パッケージなどに最も使われるので、少なくともヘルンリ尾根の名前だけは覚えておくといい。
 山頂部分は「スイス側山頂(Swiss summit:4,477.5m)」と「イタリア側山頂(Italian summit:4,476.4m)」の二つに100mばかり離れていて、スイス側山頂の方が高い。ただし、この名称は初登頂に由来するもので、あくまでもスイスとイタリアの国境線は両方の山頂にまたがっている。(※2
 しかし、スイス側のツェルマットから見ると最も美しいのに対して、東壁からマッターホルンを正対してみると二等辺三角形に見えて、まさしくピラミッドのようだが「らしさ」が無い。イタリア側から見ると南壁の西側に「肩」と呼ばれる平坦な尾根が八合目ほどにあり、頂上部分もデコボコして、ただの岩山のように見えて、思いがけないほど格好が悪い。以上の理由からマッターホルンはスイスの山というイメージが出来上がっているようだ。


マッターホルン 登山ルート
東壁と北壁、それに挟まれた
ヘルンリ尾根。
(絵ハガキを加工)

尾根のラインの色のついた線は、その尾根の登山ルート。

マッターホルン  
 ゴルナグラートから見たマッターホルン。
ヘルンリ尾根が長く伸びていて、ツェルマットから
見たよりも尾根がなだらかなのが分かる
 
  【ツェルマットとマッターホルン登山の歴史】 
 18世紀まで、アルプスでは「山は登るものではない」という考え方があった。山を越えて向こう側に行くならば峠を通過して行けばいいのであって、あえて高山の山頂に登る意味は無いということであり、また、四千メートルを超える高山では人は夜を過ごすことはできないと信じられてきた。
 しかし、自然科学者のソーシュールが地理観測を行うにあたり、モンブラン登頂の意義を認め、登頂ルートの発見に賞金を出したことから、モンブラン登頂への機運が急速に高まった。そして1786年8月8日、モンブランが登頂された。山に登ることそのものを目的とした、アルプス登山の歴史はここに始まったとされる。これを契機にヨーロッパアルプスに登山ブームが到来し、初登頂を目指す野心的な登山家が次々と高山を征服していき、約80年のあいだにほとんどの高峰は征服されていった。そしてマッターホルンだけが最後に残った。
(※グランドジョラスは1865年にウィンパーが征服したものとされたが、本当の最高地点であるウォーカーピークの登頂は1868年となった)

1786年 モンブラン(4807m) ジャック・バルマ、ミシェル・パカール [フランス]
1811年 ユングフラウ(4158m) メイヤー兄弟 [スイス]
1855年 モンテローザ(4634m) チャールズ・ハドソン、Cスミス [イギリス]
1857年 メンヒ(4107m) クリスチャン・アルマー、ペルゲス [オーストリア]
1858年 ドーム(4545m) デービス [イギリス]
1861年 リスカム(4527m) ハーディ [イギリス]
1861年 ワイスホルン(4505m) ティンダル [イギリス]
1862年 テッシュホルン(4491m) デービス [イギリス]
1862年 ダン・ブランシュ(4357m) ケネディ [イギリス]
1865年 アイガー(3970m) チャールズ・バリントン [イギリス]
1865年 グランドジョラス・ウィンパーピーク(4184m) エドワード・ウィンパー [イギリス]
1865年 マッターホルン(4478m) エドワード・ウィンパー [イギリス]
1868年 グランドジョラス・ウォーカーピーク(4208m) ウォーカー [イギリス]

 19世紀の中ごろまで、ツェルマットは当時のヨーロッパとは隔離されたような山村で、農業によって生計を立てていた。当時は一本の細い、やっと馬が通れるほどの道が外部とつながっているだけで、ベッド数3のホテルが1軒あるだけで、それも村医者に管理されていた。しかし登山ブームにより、1854年にはホテル3、ベッド数は67になっていた。
 マッターホルンへの挑戦は1855年にモンテローザが征服されてから本格化し、1857年、J.A.カレルらが登頂の初の試みが行われ3723m地点まで登攀した。その後多くの登山家が登ったが、いずれも失敗に終わっている。そのほとんどはイタリア側からの登攀だった。イタリア側から登られる理由は、「スイス側から登るのは、見ただけでも垂直に切れ上がった斜面であり、そこを登るのは不可能であるから」という先入観によるものであった。初登頂を果たしたイギリスの登山家(胴板彫刻師、製図家でもある)E.ウィンパー(Edward Whymper)でさえ「最後まで征服されなかったのは、登るのが難しいからというよりも手のつけようがなさそうな偉容に人々が恐れを抱いたせいであった」と言った。
  ウィンパーによれば、初登頂以前は、ツェルマットの迷信深い住人たちは、マッターホルンの頂上には廃墟となった町があり、そこに亡霊たちが住みついているのだと口々に話していたという。ウィンパーがそれを笑うと、「それなら自分でその城壁や要塞を見てきなさい。だが、むやみに近づくと魔物は高い所から岩を落としてくるからね」と、真剣に忠告するのだった。
 普段は理路整然と話をしたり文章を書いたりしている人でも、いったんマッターホルンの話をすると分別を失い、夢中になってこの山のことばかりしゃべり、しばらくは普通の物の言い方ができなくなってしまう傾向があったという。
                
マッターホルン  
 シュヴァルツゼーからツムットに向かう途中より、北壁を見上げる。
北壁は急なため、冬にも関わらず、雪があまり付いていない
 
マッターホルン  
 冬のマッターホルンを東壁側から。垂直に見える  
マッターホルン  
 夏のマッターホルンを東壁側から。上の写真よりも
わずかに北側からの角度で撮影
 
【マッターホルンの初登頂】 
 当初は、イタリア側からの「肩」を経由した南西山稜のコースがやさしいと思われていたのだが、南西山稜は難所もあるうえ、岩なだれが非常に発生しやすい。多くの登山家、そしてウィンパー自身もこのルートから5年間に8回も試登したが、すべて失敗し、登頂を果たすには至らなかった。
 一方、北東のヘルンリ尾根づたいは登攀不可能と言われていた。ウィンパーも「ゴルナグラートから見たマッターホルン東壁の斜度は70度以上、東壁に正対すると垂直に見える。しかも、とっかかりが無いほど岩がつるつるしているようだ」と考えていた。
 しかし彼は東壁の中腹には一年を通じて雪が残っている場所があることに気づき、場所を変えて観察調査したところ東壁の斜度は40度も無いことに気付いた。しかも岩の層の向きが登攀に有利になっていることを発見した。山の地層全体がイタリア側に向かって傾斜しているので、イタリア側からだと岩がつかみにくく、崩れやすい。スイス側からだとつかみやすく、岩なだれの危険も少ない。

 1865年7月7日、ウィンパーはイタリアのヴァルトゥルナンシュ村に滞在中のJ.A.カレル(ジャン・アントワーヌ・カレル)を訪ね、マッターホルン登頂への挑戦を説得した。二人は1862年に2回、イタリア側(リオン尾根)から4000m地点まで登ったことがあったからだ。しかしカレルは悪天候を理由にウィンパーとの約束を3日後にキャンセルした。
 7月11日夜明け、ウィンパーは自分が眠っている間に、カレルが数名の男たちとマッターホルンに向かって出発したことを聞き、自分が出し抜かれたことを知って憤慨した。そこでウィンパーは、カレルが物資を運び上げるのに時間がかかるはずだから、スイス側(ヘルンリ尾根)から急いで登れば初登頂を狙えると考えた。問題は、カレルをあてにしていたのでガイドの手配など準備ができていないことだった。11日正午、ガイドのジョセフ・タウクヴァルダーを連れた、若いイギリス人登山家のフランシス・ダグラス卿に偶然会った。自分の計画を話したところ、スイス側から登る計画に合流することとなった。
7月12日、ウィンパーはダグラス卿と共にテオデュル峠をスイス側へ越えて、途中のシュヴァルツゼーの礼拝堂に荷物を備蓄し、ツェルマットに戻り、ペーター・タウクヴァルダーとその息子二人をガイドとして雇った。ツェルマットの常宿であるモンテローザ・ホテルに戻ると、ここで偶然、旧知のガイド、ミシェル・クロに会う。チャールズ・ハドソン氏に雇われたもので、ウィンパーと同じ日に登頂を目指して登る予定だった。別のパーティーが同じ目的で一つの山に登るのはまずいということで意見が一致し、ハドソンの友人ハドウも加えた三人が合流することになった。
7月13日、一行はツェルマットを出発した。

エドワード・ウィンパー ( Edward Whymper  英国 25歳 胴板彫刻師、製図家
          グランドジョラス、ヴェルト、グラン・コルニエ、リュイネットなどの初登頂あり。
          マッターホルンにはイタリア側から8回の試登あり
フランシス・ダグラス卿 (Lord Francis Douglas 英国 18歳 スコットランド貴族) 
          ガーベルホルン初登頂などで、ウィンパーにも知られていた
チャールズ・ハドソン牧師 (Reverend Charles Hudson 英国 37歳 牧師) 
          1855年モンテローザ初登頂など、豊富な経験あり。
ダグラス・ロバート・ハドウ (Douglas Robert Hadow 英国 19歳) 
          この年に登山を始めたばかりで、ハドソンと共に7月9日に短時間でモンブランに
          登頂していた。健脚だったが、経験不足でもあった。
ミッシェル・クロ (Michel Auguste Croz 35歳 山岳ガイド)  
          シャモニ出身、多くの重要な初登頂を成し遂げた。
ペーター・タウクヴァルダー(父) (Peter Taugwalder, Vater  45歳 山岳ガイド)
          ツェルマット生まれ。数回のモンテローザ登頂経験があり、有名なガイドだった。
ペーター・タウクヴァルダー(長男) (Peter Taugwalder, Sohn 22歳 山岳ガイド)
          上記父と同名。22歳になったばかりで、初登頂の経験は無かった。
          後に有力な山岳ガイドとなり、マッターホルンには120回登った

マッターホルン  
ウィンパー隊のメンバー。
それぞれの肖像画を合成された絵ハガキから。
前列左からクロ、ダグラス卿、ウィンパー。
後列左からタウクヴァルダー父、ハドソン、ハドウ、
ダウクヴァルダー息子。

(メンバーには登攀した上記の7名以外に、キャンプ地まで荷物を運んだタウクヴァルダーの次男ジョセフもいた)

マッターホルン  
 ロープウェイの向こうからこちらを覗き込む
マッターホルンの東壁上部
 

初日は途中のシュヴァルツゼーの礼拝堂でデポした荷物をピックアップし、マッターホルンのヘルンリ尾根の麓、突き出した台地(現在のヘルンリ小屋のすぐ上の台地)約3300m地点まで登り、ここでテントで野営した。
 7月14日、夜明け前にテント前に集合し、午前3時40分に登攀を開始。ルートは落石を避けるためにできるだけヘルンリ尾根沿いに登ったが、やや東壁よりであった。ウィンパーとハドソンが交代で先頭を登り、6時20分には約3900mに到達して30分の休憩、9時55分には約4250mに到達し、50分の休憩をとった。雪に覆われた「肩」の部分を越え、先頭はクロに交代していた。そして村から見ると垂直またはオーバーハングにも見える場所に来ると北壁に回り込み、唯一の難所と感じられた岩壁を登り切り、その後は困難な登攀は無く、山頂付近はなだらかだった。7月14日午後1時40分、ついにマッターホルンの登頂に成功した。山頂に足跡は無く、カレルに負けることもなかった。ウィンパー25歳の時だった(ちなみに、日本では慶応元年の幕末期にあり、京都では新撰組が暴れていた。米国では南北戦争が終結)。ウィンパーらは、イタリア側山頂に移り、足跡が無いことを確認して再び万歳を叫んだ。そしてイタリア側斜面を見下ろすと220m下に、登って来るカレル隊を発見した。大声をかけ、石まで落としてウィンパー隊が勝ったことを知らせた。カレルらは明るいズボンの色からウィンパーだと察し、落胆して、登頂せずに引き返してしまった。
 ウィンパーらは、「輝かしき生涯を圧縮したような一時間」を山頂で過ごした。

【マッターホルンの悲劇】

 しかし、この初登頂は決して快挙といえるものではなかった。
 下山にあたっては、その順番は先頭(下山時は最も下に位置する)は優秀なガイドのクロ、2番目に経験不足のハドウ、3番目にガイドに引けをとらないハドソン、4番目にダグラス卿、5番目にガイドのタウクヴァルダー父、6番目がウィンパーで、最後がタウクヴァルダー息子の順番とすることを決めた。そしてウィンパーが山頂でスケッチをしている間に一行はロープを結び合い、あとはウィンパーが列に入ってロープを結べば、出発できる態勢となった。その時だれかが、瓶に一同の名前を書いた紙片を頂上に残しておくのを忘れていたことを思い出したので、ウィンパーが頼まれて紙に書き始めたのだが、そのころ、ウィンパーより下の位置の仲間は下山を開始してしまった。数分後、ウィンパーはタウクヴァルダー息子とロープで結び合い、仲間に追いついた。
 下山、特に危険な場所では全員が一斉に動くのではなく、一人ずつ動き、ロープでつながった他の者は岩にしがみつくか、ロープを岩に巻きつけるなどして安全を確保する、という方法で行われていた。途中、フランシス・ダグラス卿が「もし誰かがスリップして、タウクヴァルダー父だけで確保できなかった場合を考え、ウィンパーとタウクヴァルダー息子を結んでいるロープを下のロープと結び合ってほしいと頼んだ。ここで全員がつながることになった。(つまり、ウィンパーは下の仲間がどのようなロープを使って結び合っていたかは知らない)

マッターホルンの悲劇  
 事故を描いた絵画(Hodler画)
ベルンの山岳博物館にて
 
マッターホルン ロープ  
 ツェルマットのマッターホルン博物館で展示されている、
切れたロープ
 
マッターホルン 切れたザイル  
 切れた部分の拡大
※クリックするともっと拡大
 
ウィンパー  
 モンテローザホテルの壁に埋め込まれた
ウィンパーのレリーフ
 

 ところが難所とされる山頂のくぼんだ部分にさしかかった時のことだった。クロがハドウを支えるためにアイスアックス(砕氷斧)を横に置いた時、ハドウが足を滑らせて落下、クロを跳ね飛ばしてしまった。次の瞬間、ハドソンが足場から引きずり降ろされ、同時にダグラス卿も落下した。クロが叫び声を上げた時に、ウィンパーは岩場にしっかりつかまり、ロープの衝撃を感じたが、そのロープはダグラス卿とタウクヴァルダー父の間で切れてしまい、下の4人は氷河に向かって吸い込まれてしまった。この時ウィンパーは仰向けになって両手を広げて、もがく姿で氷河へ滑落していく仲間を数秒間見たのだが、助けようがなかった。生き残った3人(タウクヴァルダー父子、ウィンパー)は30分はそこを動くことができなかった。そしてウィンパーは切れたロープを点検してみて初めて、用意した3本のロープの中で最も弱いものが使われていたことを知った。それは本来は体を結びあうためではなく、多くのロープを岩にくくりつけたまま残してこなくてはならなくなった場合に備えてのものだった。ロープの切れ端は前からあった傷などではなく、ぴんと張った状態から切れたものだった。
 午後6時(夏のツェルマットの日没は午後8時頃)足場の安全な場所まで降りたとき、3人はリスカムの山上の空に巨大なアーチ型のくっきりと明瞭な模様が現れ、そのアーチの中に2つの十字架が並んで浮かび上がったのを見て驚愕した。ウィンパーは自分たちの影だと思って体を動かしたが、十字架は微動だにしなかった。2人のガイドは、これは遭難事故と関係があるものだと信じた。3人はいったん、ここで野営した。
 下山後、捜索隊が出され、ダグラス卿以外の3人の遺体が発見され、収容された。ウィンパーとタウクヴァルダーは3日間連続で犠牲者の捜索に参加したにもかかわらず疑惑をかけられ、スイス当局の査問委員会に引き止められ、裁判にかけられることになった。事故はハドウが原因と確認され、無罪にはなったものの、ウィンパーはイギリスに帰国後もタイムズ紙の社説といった、マスコミからの非難に耐えねばならなかった。ビクトリア女王はこの衝撃的な事故に関心を示し、登山禁止の法令を整備する動きを見せたが、宮内式部長官との協議の結果、登山を法律で禁止することは見送られた。タウクヴァルダー父は切れたロープのすぐ上であったことから2回の事情聴取を受け、ガイドとしての評判を落としてしまい、数年間アメリカで暮らした。それでも「ウィンパーかタウクヴァルダー父のいずれかが、自分の身を守るためにロープを切ったのではないか」という悪いうわさが流れ、長く二人を苦しめることになった。
 やがてウィンパーは地質学研究を行うようになり、グリーンランド遠征で成果を上げた。「Scrambles amongst the Alps (邦訳:アルプス登攀記)」が出版されたのは、その後の1871年となった。批判も多かったが、大衆には熱狂的に受け入れられ、版を重ねた。また、ライバルであったJ.Aカレルらとマッターホルンに再登頂したほか、南米エクアドルのチンボラソ(6310m)にも一緒に登頂している。その後も講演旅行、調査、執筆に没頭し、1911年、71歳の時に心臓まひで亡くなり旅先のシャモニーの墓地に埋葬された。彼は著書の最後を以下の言葉で締め括っている。


   「いかに勇気や体力があろうと、慎重さを欠いていては何にもならない、ということを忘れないでほしい
    そして一瞬の不注意が、一生の幸福を台無しにしかねない、ということも」
   Courage and strength are naught without prudence,
    and that a momentary negligence may destroy the happiness of a lifetime.


 
【その後のマッターホルン】
 マッターホルンは記録されているものとしては19度目のの登攀(ウィンパーとしては9度目の登攀)で成功したことになる。イタリア側から挑戦したカレルはウィンパーに敗れたと知って失望し、退却したが、イタリアの地元から懇願されて再び困難なリオン尾根から登り、3日後に登頂に成功した。
 有名な高山が一通り征服されると、次に、同じ山でもより困難なルートから登る時代へと移っていった。マッターホルンはその後、4つの尾根は以下のようにして登られた。

ヘルンリ尾根 1865年7月14日 ウィンパーら
リオン尾根  1865年7月17日 J.A.カレルら
ツムット尾根 1879年 ムメリーら
フルッケン尾根 1911年 J.Jカレルら、8合目の出っ張りを避けて
フルッケン尾根 1941年 Lカレルら、尾根の完全登攀

また、それぞれの壁の登頂は以下のとおり
西壁 1879年 ペンホール、ツルブリッゲン、インセン ペンホールコロア経由で
北壁 1931年 シュミット兄弟
南壁 1931年 Lカレル、Mビック、Eベネディティー
東壁 1932年 Lカレル、Mビック、Eベネディティー、Aガスパード、Gマゾッティー
西壁 1962年 Gオッティン、Rダグアン 完全登攀
※東壁は落石の危険が最も高く、人が近づけなかった。完全登攀には山頂付近の250mが
  非常に困難で、Lカレルらは、この部分の突破に23時間かかった。

マッターホルン初登頂の事故によってツェルマットは世界的に有名になり、その後の観光発展に大きな影響を与えることになった。その他の記録をいくつか掲載する。
1871年 女性による初登頂 英国:ルーシー・ウォーカー
1923年 麻生武治氏、日本人として初めての登頂
1979年 長谷川恒夫が77年マッターホルン、78年アイガーに続いてグランドジョラス北壁登頂、
      世界初のアルプス三大北壁の冬期単独登攀の成功
1990年 最高年齢90歳による登頂。ツェルマットの山岳ガイドのインデルビネン(Ulrich Inderbinen)
      が初登頂125周年の日に仲間らと。彼は「マッターホルンの王者」と呼ばれ、頂上には370回以上立ち、
      95歳まで山岳ガイドとしては現役だった。
マッターホルン  
 ツェルマットの村を見下ろすマッターホルン  
 マッターホルン  
 スネガからの下山コース途中にある、
レストランのテラスから
 
 【そして今・・・】 
 ツェルマットのマッターホルン博物館(山岳博物館を移設改築)に行けば、ウィンパーの登頂道具や切れたロープなどを見ることができる。街中を歩けるような、当時の登山服や革靴の裏に鋲を打ちこんだような登山靴を見ると驚くだろう。また、遭難した者でフランシスダグラス卿の遺体は今でも発見されていないが、発見されたクロはローマカトリックの儀式に従ってツェルマットの教会墓地に埋葬された。ハドソン、ハドウは英国教会の聖職者によって墓地の敷地外に埋葬されたが、のちにハドウの遺体は英国に運ばれ、牧師でもあったハドソンの遺骨はツェルマットの英国教会の祭壇のテーブルにはめ込まれた。博物館のすぐ近く、ツェルマットの教会の裏手にいけばクロの墓と、ハドウ、ハドソン、ダグラス卿を偲ぶ石碑がある。その隣にはタウクヴァルダー父子の墓があり、レリーフ入りになっている。
 「魔の山」マッターホルンは、登頂ルートが確立されており、登山の心得がある者ならば、ガイドを雇えば、誰でも登ることができる。(ただし、滑落・落石・落雷で毎年数名、亡くなっているが)
 原則的に、まずブライトホルンやポルックスなどのやさしい4000m級にガイドと登って高地順応をして、ガイドから「君ならマッターホルンに登れるだろう」というOKをもらう。(自信、実績のある人でこの試登無しで強引にお願いする人もいるが)そしてツェルマットの街中にあるアルパインセンターに正式申し込みを行い、登山日前日にマッターホルンのヘルンリ尾根の下部にある、ヘルンリ小屋にガイドと宿泊。登山ガイドとは必ずマンツーマンで登ることになる。天候など条件がよければ早朝4時〜5時ごろに数十組のパーティが一斉に登攀を開始する。午後は氷が解けて落石が増えるほか、帰りのゴンドラの営業時間もあるので、山頂に5〜6時間以内に到着できないようであれば、ガイドの判断で強制的に途中下山させられる。肩の下にあるソルベイ小屋が中間地点とされ、ここを(その日の状態にもよるが)、2時間半〜3時間以内に通過できなければ、そこで打ち切られる。ソルベイ小屋よりも上は距離的には短く見えるが、雪が多くアイゼンを使うことになり、空気が薄く、ガイドと安全を確保しながら交互に登るスタカットが多くなるので、時間的には中間地点になる。順調にいけば、午前中には山頂に立つ。下山は登山と同じ時間がかかるが、その日のうちにシュヴァルツゼーまで下山して最終ゴンドラでツェルマットに戻る。そして夜はツェルマットのホテルのベッドで寝るのが人気のコースだ。もちろん、ガイド無しで登っても誰も止めないが、どこからでも登れるように見えて、実は登れるルートが限られているため、ルートファインディングに失敗すると、思わぬ時間をくうことになる。また、ルートは日本のように標識や目印となる矢印のマークがあるわけではない(ガイドだけが分かる印があるとのうわさを聞いたが。もし日本アルプスのように、ルートを示す矢印のペンキでも塗られていたら、非常に多くの人がガイド無し登頂に成功するのではないだろうか)。ガイド付き登山者の後ろをついていく人もいるが、登頂に成功するのは半分もいないから、変なパーティーについていくと登れなくなるだろう。そのあたりは事前に十分な情報を集めておかないと事故につながるだろう。
 具体的な登山については、後日、私のマッターホルン登攀記の別ページを作ってレポートします。
    
マッターホルン マッターホルン
 早朝、ツェルマットから。
上空の雲の影が8合目あたりに写り込んでしまった
午後になって雲を吐き続けるマッターホルン。えらい迫力だ 
 マッターホルン  マッターホルン
 午後は山頂部分で雲が発生する場合が多い  このような、東壁側に雲が流れるのをよく見る
 マッターホルン  
 ツェルマットの通称「日本人橋」から。マッターホルンが
美しく、日本人が大勢写真を撮っているかららしい
 
   
参考文献:大百科事典(平凡社)   スイス政府観光局のパンフレット マッターホルン博物館のパンフレット、資料
       「Scrambles amongst the Alps」「アルプス登攀記」(講談社)
       「スイス」(JTB)  インターネットによる情報(アメリカ、イギリス、スイス)
       「History of Matterhorn」 Tolpher
       現地ガイドに聞いた話

マッターホルンのその他の画像については、サイト内「海外スキーレポート」のツェルマットをご覧下さい。
マッターホルンの登山については、このエッセイの「マッターホルン登攀記」で!(工事中)
(*1)マッターホルの高さは4477mとする本もあるが、1999年に最新のGPSで正確な標高を再計測、4477.54mとされた。
   このサイトでは基本的に政府観光局の数値を採用しているので、一般的に知られる、スイス政府観光局のパンフレットの4478mを採用した。
(*2)ネット上ではイタリア側が高いというのもよく見かけるので注意。ガイドからもスイス側が高いと聞いているし、Wikipedia英語版にある、
The Matterhorn has two distinct summits, both situated on a 100-metre-long rocky ridge: the Swiss summit (4,477.5 m) on the east and the Italian summit (4,476.4 m) on the west. Their names originated from the first ascents, not for geographic reasons, as they are both located on the border. を採用した。
 
  
【このサイトのマッターホルンに関連するページ】

スーパーエッセイ>モンブランとシャモニの物語
スーパーエッセイ>アルプスと氷河の物語
海外スキーレポート>ツェルマット

 
スキー
 もしあなたがこれから登山や岩登りを始めたいという人で、ちょっとだけ英語の読み書きができてネットが使えるというなら、道具は海外から通販で買うのが一番安いことを知っておくといい。スポーツ用品店「V」の店長経験がある人に、社員なら安く買えるでしょうと聞いたら、海外ネットの方が安いのでそっちで買うと言っていた。登山靴はスキーブーツのように、日本人の幅広甲高の足に合わせた日本仕様を製造しているのではなくて、欧米と同じ製品を、そのまま日本に輸出しているのだ。日本の店で実物を見て、自分に合うと思ったら、同じ型番のものを調べて個人で海外から購入すればいい。日本はあまり値引きしないし、そもそも最初の値段から高くて、円高のメリットがさっぱり受けられていない。海外はバーゲン以外の通常期でもだいたい日本の半額であり、あるていどまとめれば送料も安くつく。米国ブランドのMade in Chinaが日本で買うと倍の値段になっていたりする不思議が存在するのだ。
 ところで、あなたはパタゴニアというブランドを知っているだろうか。ここの日本の公式サイトの商品の米国の値段を調べようとPatagoniaを検索して米国サイトをクリックしたら、日本からのアクセスを検知して日本サイトにリダイレクトされてしまい、日本から見えないようにしていた。頭にきて、商品名を特定してその商品名で検索して米国サイトを調べたら、18,900円の商品が129ドル(9,933円 1$=77円)だった。海外の製品を買うときは、日本で商品の型番やサイズ、靴ならフィット感をよく確認し、海外と比較してから買うほうが納得もできるし、いいだろう。

 もうひとつ。ご存知のとおり、パタゴニアはシーシェパード(環境保護団体と名乗りながら、日本の調査捕鯨を暴力的手段で妨害などを行う団体)に対してその行動内容を承知で公然と(日本ではひっそりと)支援している企業であり、もしあなたが日本人としてのプライドを持っているのなら、こういうブランドには手を出すべきではないし、買わないことを願って止まない次第だ。
 
 
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